「Accras」というのはフランスの島料理で「魚のすりみの天ぷら」。
すり身にした白身魚と野菜を混ぜあわせ、一口大のボールに丸めて揚げたものです。
私が南仏でレストランをやっていた頃、“さつま揚げ”をお出したとき、お客さんに言われたのです。
「日本にもAccrasがあるのね⁉」 通常天ぷらはBeignetと言いますが、さつま揚げみたいなすり身の
天ぷらはAccrasと呼べば、フランス人にはわかりやすいのだと介しました。
フランスの海外県、カリブ海に浮かぶマルチニーク諸島のお料理だから、本土の料理とは随分違うけど、
Accrasはれっきとしたフランス料理の一つ。
で、本日の話は、Accras Thailandaisです。タイにも「トートマンプラー」と呼ばれるAccrasがある。
魚(白身魚か、鯵などの青魚を使う)をすり身にし、トアプー(四角豆。ない場合はインゲン)などの
野菜、レッドカレーペーストで味付けしてから揚げます。作り方は日本のさつま揚げと同じだから、
日本では「タイ風さつま揚げ」と呼ばれます。
日本人には、とかく九州出身者には、さつま揚げは懐かしい味、九州の郷土料理でもある。
私は子供の頃、おやつ代わりにさつま揚げを食べ、さつま揚げで育った…と断言できるほど、よく食べたけど、
さつま揚げは薩摩で生まれた料理ではなく、中国から来た料理。
オリジナルは中国福建省にあり、江戸時代末期(1860年頃)に薩摩藩の28代藩主・島津斉彬公が中国福建省から
沖縄経由で持ち込んだとされています。
鎖国をしていた江戸時代、日本は海外との接点をほとんど持っていませんでしたが、例外もある。九州の藩主たちです。
九州の大名は秀吉時代の朝鮮出兵に協力し、朝鮮から多数の陶工たちを連れて帰って来たおかげで九州は焼き物が
盛んです。世界に名高い有田、伊万里、薩摩のほかにも、有名な窯が各地に多数。
焼き物で最初に大成功したのは薩摩藩でした。島津の殿様は芸術活動に力を入れ、朝鮮から拉致してきた陶工たちが
日本の民から人種差別を受けることないように武士の称号を与え、武家屋敷に住まわせて作品作りに専念させました。
藩の篤い庇護の元、薩摩焼から数々の芸術品が生み出されます。
それらを海外へ輸出した島津藩は焼き物貿易で大成功をおさめ、日本の最果ての一藩であるにも関わらず、
一国として成り立つ財力と権力を持つようになる。それを見た鍋島藩も、薩摩藩に続けと、それまで以上に焼き物の
海外貿易に尽力し、有田・伊万里は欧米人好みの絵付けや色彩、多数の洋食器を作るようになり、世界的なニーズと
知名度を上げ、世界の人気ブランドと成長してゆきます。
薩摩藩、鍋島藩の大名は世界的にも一目され、欧米で開催されるインターナショナル・エクスポにも招待されます。
鎖国中の日本のブースはないのに、中国、インドシナと肩を並べて、薩摩や鍋島のブースを設けて展示を行っていたのは、
なんとも愉快でなりません。世界をまたにかけて活躍する地方大名の力を恐れ、幕末の混乱が起こるわけですが、
余談はここまで(笑)。
島津斉彬公の視野は世界に広く開かれ、中国福建省と沖縄との交流も深かった。
福建省から沖縄経由でさつま揚げを持ちかえり、さつま揚げとして郷土料理にしてしまったわけです。
中国福建省は東南アジアとの貿易に力を入れていたらしく、東南アジアには福建省出身の華僑も多い。
タイ、マレーシア、シンガポールでポピュラーな「海南飯」も福建省の料理。タイでいうところの「カオマンガイ」です。
カオマンガイが各地で味を微妙に変えて存在するように、福建省生まれの魚のすり身の天ぷらもタイ風に進化して、
レッドカレー味のさつま揚げになった・・・。そう考えるのは普通なことでしょう???
福建省出身者の華僑がマルティニークまで進出し、Accrasの基を伝授したかは不明ですが(笑)、
海を越え、一つの料理がいろんな形への進化し、現地の料理へと土着化していく。食文化進化論。
たかだか、さつま揚げ。でも、さつま揚げの味は思ってる以上に奥深い。